So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン
前の2件 | -

還暦百態物語<7>

【フィクション/還暦百態物語~その7】

じいさんの顔.jpg

 寛永20年、霊厳洞に入って「五輪書」を記し始めた宮本武蔵はこの時が60歳・還暦の齢だった。吉岡一門を潰し、佐々木小次郎を討ち果たすまでの武蔵は修羅の如き武者修行を歩んでいたが、しかしいつ果てる事を知らない争いの人生にむなしさを感じ始めてもいた。
 舟島(巌流島)の果し合いを終えたのは31歳の頃。その後、筆達者としての評価も高い武蔵が仏像を彫り始めたきっかけは、やはり人生のむなしさから来るものだったのだろうか。
 仏の前に座して時には座禅を組み何体もの仏像を彫って来た武蔵ではあったがそれでも魂を鎮めるにはそれなりに時間がかかったということなのだろう。世俗から離れて洞に籠もり「五輪書」をしたためる事に余生を費やす決心をした武蔵の胸中はどの様なものだったのだろうか。還暦を迎えた武蔵にとってこれまでの、そしてこれからの人生は何を意味しているのだろうか?山の頂に立った武芸者が見た世界とは一体どんなものだったのだろう?

 白い紙に墨を含ませた筆が流れる。水の湧き出る泉の様に筆先から迷いのない文言が溢れ出でる。立て板を流れる水の様な軽快な筆運びが、少しの迷いも無い還暦の達観の齢を示している。これまで剣を通して生死の狭間で生きてきた証しは堰を切った流水の様に言葉の奔流となって尽きる事がない。これまで思いのまま自由に生きてきたと思っていたが、今こうやって筆を執るとまだこれまでに己を押し止めていた感情があったと気づくのだった。
 洞窟の奥に坐り意を決した表れなのか、全てを許された開放感に浸されて思いのままに筆を動かす。これまでの剣の道を辿り始めた初めの頃は、吉岡一門の幼年の後継者を切り捨てた罪悪感が己の脳裏から浮かび出て心痛なこともあったが、修羅の道を書き進むに連れて己が一生をかけてめざしてきた剣の道の先にある光明が見えてきた。
 そのままでは鬼となり悪となって生きてきた道ではあったが、それがひとつの剣法・兵法に成就されて人の目を開かせる書になるのであれば、これまでの苦行は無駄ではなかったと確信した。汚れた身であればこそ清めることの実感を得ることが出来るのと同じで、罪を生きた己であるからこそ仏の心を知る事が出来るのだ。
 己の中にある罪を見つめ真摯に磨きを掛ける中に救いの道が見つかるという事を「五輪書」を書くことによって体現し証明出来た。己にとって剣に生きた道こそ哲学なり。時に荒々しく人生を翻弄した恩讐は還暦の渦に吸い込まれ、人間の営みの罪深さを洗い流した後の清々しさが残っていた。

 

<未了>:後日改訂するつもりです。

_______________________________________
 この読み物はフィクションで構成されているショートショートの習作です。 

 


nice!(8) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

復活の真髄 [閑話休題]

これ以上何も望まない人もいる。まだまだ先を望む人もいる。
満ち足りて終焉を迎えようとする人もいれば、満たされない人生をまだ終えるつもりのない人もいる。
一度きりの命と云うことを実感できないままの人は実に多くいる。生きとし生きるものは皆一期一会である事を知っているのだろうか?この肉体が滅び去る様に、今生きているもの全ては存在しなくなる。事実は事実、だからどうしたということも無い。

生きている時間が終わりに近づいてこの身の行く末を考えるようになる。自分と云う存在を意識と肉体感覚で(心と体で)捉えてみれば、確実に一方の肉体という自我は滅することが理解できる。つまり現存するこの社会も世の中も全て無感覚で麻痺して存在しなくなるという事が理解できるようになって、愚かな様々の幻想から解放されるようになる。
無限の中に融合された魂はどのように再びこの世界に現われるのか?融合と分裂が繰り返されながら永遠に存在し続ける魂を考えると、復活とは特別なものではなく当たり前の現象に思えてくる。
「私は私として復活することはなく、他の存在となって誕生する」この自然の摂理を胸に、残りの時間をしっかり生き抜きたいと考えるようになった。

partenon_02.jpg


nice!(17)  コメント(1) 
共通テーマ:日記・雑感
前の2件 | -