So-net無料ブログ作成
前の2件 | -

還暦の猫 その10「老猫の黄昏」 [還暦猫ミカン]

台風の日に我が家にやって来て早16年が経つ、還暦猫ミカン。猫にも認知症というのはあるのだろうか、最近の動作からは若い頃には見られなかった“老いの雰囲気”が伺える。私が若かったらそんなものは感じなかったかも知れない。やはり自分を投影して感じ取っているのだろうか…。
今年の夏は一段と暑かったせいかあまり食欲もなかったようだった。夕方になって涼しくなるとぼんやりとしながら玄関先で夕涼みをしている。どうやら一匹だけ友達もいる様なのだが近頃はあまり顔を見せない。何を待つとも何処を見るともなく、過ぎゆく時を眺めている様だ。

玄関ミカン_190802.jpg

元気で活発だった日々が今となっては懐かしい。猫にも過行く時間が分かるのだろうか?いずれこの世を去る事もその後の世界のことも感じ取っているのだろうか?
人間の多くは黄昏を前にしてあたふたとする姿を見受けるが老猫たちは悠然としている、というよりはそんな終末思想は持ち合わせていないかのようだ。


人間たちは我が猫族のことを自分たちの世界の延長線にある様に考えている様だが、実はまったく無関係の関係なのだニャン。人間たちの見ているものを我々が見ているとは限らないし、また我々の見えているものが人間たちに見えているとは限らない。そういう意味では我が猫族の方が哲学的とも云えるかも知れないニャン。
我々も朝日が昇るのは見えるし黄昏どきに夕陽が沈むのは見えているけれど、それによって一日の終わりとも思わないしそんな区切り方はしていない。そして当然のこと黄昏が命の終わりを象徴しているとも感じた事はない。老猫にとっても幼猫にとっても等しく“今がすべて”であり今に全神経を集中しているんだニャン。

玄関ミカン_190801.jpg


nice!(10)  コメント(0) 

No one will be left behind. [還暦学講座]

華麗なる挽歌.jpg

上の絵は亡父が70代の頃に描いていた絵(油彩:50号)である。父は世の中へのテーゼと云うよりは自分自身への問い掛け、慰めとして描いていたのだろうと思う。
老いた事で生存価値を失い、現実から廃棄されようとしている者たちは何処に向かって何を求めてゆけば良いのか?そんなテーマを描き続けていた様に思う。彼はややペシミストで朝日よりも夕陽に美意識を感じる人だったので悲壮感の漂う作品が多かったが、その心内は人並みのほのかな幸福を求めていた筈だ。

求める“幸せのかたち”は十人十色で人それぞれなものだが、俗とは云え世間と切り離され見捨てられたような孤独感はだれも望んでいないと思う。それなのに何故世の中には見捨てる人、見捨てられる人がいるのだろうか?それは自然界の掟でありセオリーだとでも云うのだろうか?自然界の非情な掟だったとしたら、それを緩和するために人間は社会というものを創り上げて機能させようと考えたのではなかったのだろうか?人間社会はそれぞれが最低限度の幸せが甘受出来るための仕組みになるべきだったのではなかったか?
それは誤解で社会とは権力を行使して弱者から吸い取るための寄生構造だと云うのだろうか?だとしたら、何と残酷で愚かな世界を私たち人間は後生大事に美化しながら生きているのだろうか……。まだまだ自分たちの知らない世界を開拓してゆく余地が隠されているに違いないとは考えられないだろうか?

まだまだ私たちの経験した事のない世界…それは人々に“順位のない幸せ”の感覚を教えることから始まるのではないだろうか?例えば“自己を全うして死を迎えることの幸せ”。誰もが見捨てられる事のない充足感と安心感…
人々の安心感の対極に“不安感”というものがあるがこれこそが間違いの根源かも知れない。人々や社会に不安の種を撒いて混乱させ、甘い囁きと救いの話しでマッチポンプの様に刈り取ってゆく。そんな構造は遥か昔から古今東西で見受けられる…いやそれが人間世界の歴史の様でもある。人間が誕生した時から既に内在していた“生命に対する不安感”は古代から神を生み出し宗教を生み出してきた様だ。この不安な気持ちというものは根源的なものだから無くすわけにはいかないが、これに打ち勝つ方法はある。それは幻想を破り真実を見極めるという事かも知れない。

No one will be left behind. すべての人たちから不安感を取り除くこと…それは“誰もが置き去りにはならない社会”をめざすという姿勢につながる。


nice!(18)  コメント(4) 
前の2件 | -