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第5章~若き日々への伝言 [還暦の荒野をめざして]

職場など諸々の集いの中で若い人たちと交流があると時として考えてしまう事がある。
果たして己の人生訓をお節介に言うべきなのか?それとも老いたる者は見届けるだけにしておくべきなのか?私自身はたくさんの思い違いや失敗を反省して今日があるのだがその事を説明したところで同じ轍を踏まないようにという意図はたぶん伝わらないだろう。否、事前に自重を促しても実際には押し止められるものでもない事は承知している。

時代の価値観や社会のコンセンサスが違っているので振り返る事に果たして意味があるのか?という疑問もあるが、自分自身への回答という感覚で若き日の総括をすることが…還暦を経てからの思考パターンのひとつとなっている。
老化現象のひとつなのかも知れないと思いつつ、その中には若い頃に探し求めていた答えがあるかも知れないという感じがして、気がつけば無意味な事に深入りしているのかも知れない。
しかしやはり私は生き続けている限り、自分の思いを表示してゆける事は精神が生きている証しの様に思える。


自身が若かった頃へ『未来からの伝言』として書き記す、そんな方法でしか自分を満足させる術が無いようだ。それでも伝えたい何かがあるということは幸せな事だと思う。然したる意味もない単に老いたる者の独白でしかないのだが、私にとってはコミュニケーション表現のひとつの形なのだろう。

赤の自画像.jpg
 ▲「赤の自画像」1979年

【若き日の私に~未来の私からの伝言】

計算された生き方ばかりでなく時には損得を度外視した選択も若者には必要だろう。今の君の闘いは結果としては惨敗に終わる事になるだろうけれど、それは人生に於ける通過せねばならない宿命のひとつだと思えばいい。
未来の成長した私から見れば、若く未熟な私の犯す失敗の数々を止める事が出来そうに思えるけれど、それは決して正しい判断ではないと分かっている。過去の価値観で説得をしてみてもそれは有効なものではない。何事も説明で事済むのなら歴史はこのようには流れてこなかっただろう。
私は貴方の失敗を後押しする。間違いに思える生き方に対して、意見としては否定しても決して押し止めようとはしない。未知のものに対しては全てが間違いを犯しそこから学ぶものだから、先達は生き様の背中を見せることはあっても前に立って先導するものではないからだ。

貴方が若いから知らないという訳ではない。結局いくつになっても人間は殆どの事を知らないままに人生を過ごしてゆくものなのだ。不安を掻き消すために自分自身を納得させるために「知っている」と思いたいだけで、本当のところは表面的な事しか分かっていない。
だから何度でも言う。大人たちの言葉に従うも逆らうも君自身の判断であって、それは君たち一人一人の運命なのだと分かっていて欲しい。貴方の生きている時代の価値観で自分に忠実に生きる事、それが唯一只一度切りの自分の命を生きる事に繋がってゆく。

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 ▲「雨の中に」1979年

これまでの生き方を反省はすることもあるが後悔はしていない。もしももう一度生き直す事があっても結局は同じような生き方をするのだろう。それが人の習性というものであり永久に進化などしない人間の性でもあると思う。

この肉体を身につけて生きるのも今生只一度がすべてである。有り難く生き切れればそれが最上であると思う。君死に給うこと勿れ。

 

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第4章~人生の躓き [還暦の荒野をめざして]

石川達三・原作で神代辰巳・監督の『青春の蹉跌(さてつ)』は、私が若い頃に観た邦画の中で忘れられないお気に入り作品のひとつだ。
脚本・演出も出色の出来だが、主演の萩原健一そして井上堯之の音楽が素晴らしかった。
私の頭の中にはいつしか『青春の蹉跌』という題名がそのまま青春を表現するキーワードのように定着していたようだった。

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 ▲ 若き日のイラスト_ア・ラ・カルト

そして時は流れて老境に入ろうかというとき…
私はちょっとした躓(つまづ)きをしてしまった。まだまだ至らなさのある事を思い知らされた。
働くことに於いてはピンからキリまで様々な世界を経験してきて多少の事では動揺などしない人間のつもりでいたが、老いによる衰えもあるだろうが未だに身の振り方の至らなさを痛感する羽目となった。
これは肉体的な衰えばかりが問題なのではなく、年齢からくる精神の脆弱性だとも思った。歳をとれば人も円熟してその心も強靭なものになるのかと思っていたがそうとも限ら無さそうだ。

人生に「躓き」というヤツはよくあるもので、それを致命的な大事と採るか通過点上での出来事と理解するかはその人の気持ちの在り方に係っていると思う。只いずれにしても“躓き”である事に違いはない訳で未熟な過ちであると認める事が肝心だ。
たいした修羅場も知らないくせに強者ぶった顔をして己の未熟さを顧みない高齢者の多くなった昨今だが、かと言ってあまりに自己批判して卑下し過ぎるのも行き過ぎの様に思える。
程よいバランスで生きることが人生の達人だと思うようになった私だが、そのバランスが崩れるから躓いてしまうものなのだという事も分かった気がした。

「躓き」は幾つになっても、もう大丈夫だと思っていてもやってしまうものだ。常に最善のバランスで生きていられるものではないから、ちょっとした状況の変化で迷ってバランスを崩して“仕出かしてしまう”のが人生なのだと思う。

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今更この歳で修身を学ぶと公言するのも愚かしいが、まだまだ改めて気づくことは多くありそうだ。躓く事でまたひとつ賢くなるのだったらそれも人生の拾い物だと思って大切にしておこう。

人生の終盤にさしかかった時に、それでもまだまだ面白く笑える生き方ができれば、そんな素敵な事はない。
先ことなど心配せずに、躓くことなど気にもせずに来るべき時を楽しみに生きていれば、そんな天晴れな人生はないだろう。

人生の到達点は「希望と再生」なのだと悟ったような気がした。

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【青春の蹉跌のテーマ】


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第3章~旅路の果ての… [還暦の荒野をめざして]

 

人生は一種の旅のようなものだと思っている。
それとも旅することが人生を生きるようなものなのだろうか。

地図を持って、計画を練って、厳選された人生を歩むのも旅の楽しみのひとつだろう。
そしてまた、いつ帰るとも知れぬ故郷を後にして無頼の放浪に生き様をみるのもまた然り。

人生を旅と喩えるなら、そこで何と出会ったか?そこに何を見つけたか?どれだけそこに埋没できたか?
そんな風に私は価値づけをしたい。
終焉に来てその真価を問われる事になるだろう。人生に於いてもまたその旅路に於いても。
早くから開花する早熟の天才というものもあるがそれは天才たる所以で、私たち多くの凡人はその生涯の終焉に近づいてようやく真価に目覚めるように思える。

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若かりし頃の異郷の暮らしを再び辿ってみるのもひとつの旅だろう。
または四国八十八箇所お遍路という形の旅もひとつである。
そして還暦の旅路の重要なポイントは『頭の中で旅をする』ことにある。

還暦という人生の到達点から再び改めて旅立ちをめざすという事は
この次は出発点の故郷に戻って来れる保証はないという事である。今のこの場所を終の棲家にするのなら、今を大切にする事が最善の方策であり異郷を求めて旅立つ事に意義はない。
還暦の荒野をめざす旅立ちは、芭蕉が旅立つ前に詠んだ「野ざらしを心に風のしむ身哉」の覚悟も必要なのかも知れない。

私は若い頃に精神的・肉体的に厳しく負担をかけた放浪の旅を重ねてきた(日常生活も含めて)経験がある。
還暦を越してからの旅というものは決して体力的な挑戦をするものではないので、私は一種の思索の旅と位置付けているのだが、
それでもその旅は決して甘いユートピアを求めるものではなく、これまでの人生の未体験ゾーンに目を向けた荒野をめざすものなのである。

絵本の物語.jpg

何だかストイックな表現になってしまったようだが、力みかえった生き方をめざす訳ではなく裏切られてもめげない覚悟を持って生きることを“自分自身に言い聞かせている”そんなエールのつもりなのだ。

これから私が旅立とうとしているその先はまさしく荒野であり空虚な風が吹き荒れる場面もあるかも知れない。
しかしこれまでの人生が全てであったと結論づけたくない往生際の悪い私は、たとえ苦しくても目の前の荒野に向かうしかないのだ。自業自得と言ってしまえばそれまでの事だが。

人は当然誰もがユートピアを求めて生きている。
しかし世の中には偽りのユートピアもどきが充満していて、長らく生きているといつの間にか真偽混然とした中で自分を見失ってしまう。
還暦を過ぎていつまでも偽りのユートピアにこだわるよりも、視点を変えた新しい次元に目先を向けるのはその為なのだ。
(※最近、60年代後半の岡林信康を聴く事が多くなりました。別にボブ・デュランのノーベル文学賞受賞とは関係ないとは思いますが…シンクニシティかも知れません ^^)

 


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第2章~再び荒野へ [還暦の荒野をめざして]

 

もう一度自分を試してみよう。そんな気持ちになったのは雑念が剥がれて身の軽さを感じた時だった。
それはまるで、透明の薄い壁をスッと通り抜けたような、何事もなかったかのような感触だった。
特に名を上げるためでもなく自分を売るわけでもなく、確かな表現力を身につけたいから、そんな気持ちが正直なところだった。

考えてみれば、自分を素直に表現するという意識で絵を描いてきた事はなかったように思う。
いつも何らかのテーマだとかポリシーだとかの表現に意識を向けてきた気がする。だから前向きに、時として挑戦的に物事に取り組めてきたのかも知れない。
還暦を経て周囲も含む人生観が丸みを帯びた凪のような穏やかなものになった時、そういった渇望する情熱に変わるエネルギーの源は何なのだろうか?

これまで自分に制限を掛けて来たと思われる幾多の社会的基準から解放されれば、それで自分本来の道を進めるというのだろうか?
社会からの制約を受けないという事は脱社会の出家状態であり隠遁生活でもある。隠居の身で外部に向かって表現するモチベーションとは一体何なのだろうか?何処から来るものなのだろうか?

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社会の枠という固定観念から脱したとしても、それは視点が変わったという事であって決して現実の社会そのものから切り離された訳ではない。生きる基準や価値観の何割かは生活する社会的環境に合わさなければ、自然の摂理で淘汰されることになるだろう。

しかし、かと言って社会に対して挑戦せず゛言われるがままに生きている”という生き方に納得できない者もいる。
世間の常識、社会通念という現実的尺度で推し量られた生き方に止まれなくて幾度となく辛酸を舐めても、やはり荒野に歩を向けてしまう生き方…
還暦を迎えて新たな視点から視野を広げた筈なのに、それでもやはり…否、だからこそまだ見ぬ確信を求めて夢幻の荒野に旅立とうとする者がいる事も事実なのだ。

suomi_lake.jpg 

答えは決してひとつではない。
還暦を゛社会的な人生の終点”という捉え方をしていたが、人は生きている限り終わりではないのだろう。…それでもまだ先を往こうとしている。
私の意志は時の流れという偶然に揉まれながら、時には思わぬ方向に進んでゆく事もある。

訳あって、これまで経験の無い初めての職に就く事になった。この年齢で全く未知の経験の無い仕事はしんどいものだが、もうひと山越えるつもりで乗り切ろうと思っている。
ある意味でこれは今の私自身の達観した考えとは裏腹な部分もあり矛盾もあるのだが、そういった意味では自分への挑戦でもある。

私本来の仕事でもある『絵本制作』のスタンスでは゛還暦から人生の帰り道を模索する”事をテーマにしているが、これはこれでまた違った次元の荒野であると思っている。答えが決してひとつではないように、向かう荒野もひとつではないのだと考えている。

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※写真は埋め草的なもので本文との関連は特にありません。


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第1章~新たな旅立ちへのプロローグ [還暦の荒野をめざして]

 

今から40年以上も前、私はあて無く知人もなく一人で片道切符のヨーロッパに飛び出した。
そして冒険と波乱で過ごしたの2年余りの日々は、帰国してからの私の人生にそれなりの影響を与えて平穏無事には過ごさせないものにしていた。
長い年月が過ぎ去って取り巻く世界はすっかり変わり、私自身も年老いた状況の中で、改めてかつての時代を生きた魂のようなものとめぐり遭うことになった。
それは過去の情熱とシンクロさせながら、この先の生き方に新たな荒野をめざそうとする還暦の旅立ちのようにも思える。

【この先の荒野~老いの浪漫】

当時、私はまだ十代の若者で社会経験と言えるものもなく、日本国内は大阪万博も終わり高度成長の頂点にあって、諸外国の国情や環境は現在とはまったく違う状況だった。
ヒッチハイクでヨーロッパ中を駆け巡り、時にはアルバイトに就いて街に暮らし、少し蓄えが出来たと思ったらまた旅に出る…
何に束縛されることもなく自由を謳歌していた青春の一時期でもあった。

そんな私にとって“荒野”とは何だったのか?それは帰国後、その後の私の人生が物語っているのだろう。
日本に帰ってからの表層的な生活に飽き足らず、刺激を求めて社会の裏側に足を踏み入れたりもしたが、それが私の意識にマイナー志向な感性を築いてゆくことになるとは考えてもみなかった。
実に“小説より奇なり”の体験もしてきたが、脇道ばかりに気を取られて主流から外れて行ったことが今思い起こせば少しばかり残念ではある。

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還暦を迎えた頃から、私は一種の解脱を意識するようになったようだ。
(この“解脱”とは宗教的な意味ではなく私流の解釈で、社会的価値観や束縛からのドロップアウトのような感覚で捉えています)
過去を否定するわけではないが、それはどこか社会通念に縛られて、また社会的基準からの逸脱を恐れて(別の言い方をすれば、社会の容認を求めて)生きていた部分のあることは事実だ。
それが悪いという事ではないけれど、自分自身を誇れる生き方かと考えると少し違っているような気がする。

そしてそれは青春時代の幻想を乗り越えて、新たな視点から“荒野”に対して検証と創生のための振り返りなのかも知れない。
これまでの固定観念を取り払った頃から、絵本づくりを初め私の創作に対する姿勢(スタンス)は大きく変わった。とても自由で何ものにも縛られず生き生きし始めた感覚があり、それは生き様の反映でもあるように思える。



“荒野”とは未踏の領域のことであり、更なる次元への旅立ちのコンセプトである。
私はそんな風に捉える事にした。
若い頃の
それは海外に飛び出し自分自身を試す武者修行のような意味だったが、この歳となった今では老いのロマンチシズムのような精神的な飛翔をイメージさせる。

リュックを背負って向かい風を顔面に受けながら突き進むような猛々しさは無いけれど、未知の荒野に向かう覚悟と真摯な気持ちは心地よいものだ。
還暦を過ぎた初老の覚悟というものは一種晴れやかなものにも思える。その様に捉えたい。

沿道.jpg

 


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